漱石と一葉


夏目漱石の年譜(1867-1916)を見ると「二歳で浅草南部の添年寄塩原昌之助の養子となり
(二二歳で夏目家に復籍)、戸田学校(現、蔵前小学校)に通う。成績飛び抜けて優秀。10歳
の折、下谷西町十五番地に移る」とあり若き漱石は台東区で育ったことがわかる。
                                台東区史跡散歩(学生社)より抜粋

夏目漱石の妻・鏡子の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が東京府の官吏を務めていた時の
上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち
上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下と
いうだけで、これだけ何度も借金を申しし込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃ
ない。」と言って、破談にしたという。

樋口一葉の年譜(1872-1896)によると現在の千代田区内幸町で生まれ何度も転居している。

明治五年下谷練塀町43に転居
明治七年麻布三河台に転居
明治九年本郷六丁目に転居
明治十四年下谷御徒町一丁目に転居
明治十四年下谷御徒町三丁目に転居
明治十七年上野西黒門町一丁目に転居
明治二十一年芝高輪北町に転居
明治二十一年神田表神保町に転居
明治二十三年本郷菊坂町七十に転居
明治二十五年本郷菊坂町六十九に転居
明治二十六年下谷竜泉寺町に転居
明治二十七年本郷丸山福山町に転居 この地が終焉の地となる。享年二十四歳
                      明治の古典たけくらべ、にごりえ(学習研究社)より抜粋
以上の年譜を見てもわかる様に台東区に縁のある文学者である。

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朝顔市
江戸時代御徒町というと朝顔が有名であった。朝顔といえば、入谷が有名であるが、それは
明治に入ってからである。御徒町の朝顔は、奇品造りというかたちで流行し、その最盛期は
文化十二年(1815)頃であった。朝顔造りは住人の幕府下級武士が内職として行われたと
いわれ、明治以後入谷に移された。いまも行われている入谷の朝顔市の発祥地は御徒町
だったのである。     旧町名下町散歩(台東区役所区民部)より抜粋