本に書かれた佐竹の話
下谷佐竹ヶ原の賑い
 トンボの名の由緒因縁 下谷竹町のこの近所の、変遷方(カワリカタ)と申したらあ なた、こんなにも変わるものかと、思われてびっくりいたします。御徒町公園のとこが伊予大洲の6万石加藤遠江(トウトウミ)の守(カミ)さま のお屋敷で、ご宝物倉の3つも建っていたとこが、子供のブランコの遊び場で、尊いお稲荷さまのあったのを、取り壊してしまって、もったいないと思っていましたよ。ソレでも今度ご再興になりまして、マアよかったと安心したような訳で……。
 
 ソレから佐竹ヶ原、古くは竹門といい、佐竹さまの西門の扉に竹があったので、竹門竹門といいました。ソレがあなた、下谷きっての賑やかな雑踏場(サカリバ)でして、
講釈場の寿亭――モー今頃(午後1時)は、良人(ヤド)なんか、あなた、お湯へ入って「往ってくるぜ」と申して、昼寝に参るんでございます。前座の太平記読みが、板をたたいているんだそうで、木戸が2銭の布団が5厘で、木枕がころがっているんで、ソレをとって、ゴロリ寝ながら、昼間からグーグー寝込んで、いびきが高いと「いびきだよ」と、客から注意されて、席亭の若い衆に起こされるなんて、ばかばかしい、ソノくらいなら、宅(ウチ)で寝たらよさそうなものといいましてもあなた、前座のノンノンズイズイを聴いて、寝せつけられる味が、なんともいえねエといっていました。
 
 「宝集亭」という講釈場もありまして、両方へノベツひる寝に参りますんで、2銭5厘の昼寝は安いようなものですけれど、毎日ですからあなた、日銭ですから、お湯銭と講釈代とで、よい加減とられましたよ。
 
 「宝集亭」のことを、「とんぼ」とんぼと申しますから、「どういう訳で、宝集亭という名がありながら、とんぼとんぼというのだエ」と、良人(ヤド)に聞きましたら、「由緒因縁(イワレインネン)といえばこうなんだ、そもそも」「冗談じゃアないよ、この人は、講釈師かぶれがして」と大笑いだったんです。ソレが宝集亭の主人というのが、出席の講釈師の穴があくと、自分で出て、いつも本多平八郎がとんぼ切を振り回すくだりを弁じるので、誰いうとなく「とんぼ」とんぼというようになったんですと申しました。
 
 玉ころがしに吹矢の的 その「とんぼ」の娘の亭主になったのが、ご承知か知りませんが、正流斉南窓で、太った大坊主でした。講釈師のかたわら売卜者(ウラナイシャ)ともなつていましたがあなた、ツイ近年です。下足番とイザコザがあって、とうとう下足に殺されてしまいました。易を見ても、自分の身の上は……暗剣殺はわからなかったと見えます。
 
 色物の寄席で、六三亭、久本がありまして、芝居で柳盛座、浄瑠璃座、三勝座、イヤ賑やかなもので、その間にあなた、「玉ころがし」というものがありました。「ちょつと一けん、モー一けん、ながらさがらの人柱、雉も鳴かずば撃たれまい」などと、ソレはソレはあなた、おしゃべりのおかみさんがいて、客の悪口をいう、ケチだの、すべったのと、よくも舌がつづくと思ったくらい、しゃべりたてました。
 
台に穴が6つありまして6つの玉を転がして、金の玉が金の座へ入ると、一番よく、大きな金華糖の鯛をもらえますが、金の穴はまわりが盛り上がっているかして、入りそうになって入りません。「さくら」がいてやると、うまく入って、ワザワザ金華糖の大鯛を見せびらかして貰って行きますから、造作なさそうだと、やってみますか、サテあなた、どうしても入らないように出来ているんです。ほかの穴では、ハッカのお菓子に極まっているんです。
 
 ソレから「吹き矢」です。廻している籠目の中へ、吹き矢の矢を吹き込むんですが、これも難しいンで、石屋の子の「よっちゃん」が上手で、斜かけに吹くと、籠目の小さいところへ吹き込むもんですから、「吹き矢」の親父が「よっちゃん」が来ると、恐れ入って「兄さん、お前さんは許しておくれ。これをあげるから」と、お菓子をくれて、謝ったものです。
 
 コツがあったものと見えますが、「よつちゃん」のは、斜かけに吹き込むんですが、といって真似ても、そうは問屋が卸しません。なかなか入りっこないんです。妙なもので………。
 
 デロレン祭文二人話し合い 原の名物が、きょう日どこでも、東京では見かけませんが、デロレン祭文(サイモン)……常州ざえもんと申しまして、「玉川小辰(コタツ)」というのが、小屋掛けで、奥の高座の上に、二人あがって、錫杖というのを、右手で振り立てて、二人掛け合いで、マア今の浪花節の、下卑たものでした。入り口に、キットさざえの壺焼き屋のあるのもおきまりのようで、ズット小屋掛けへ入って、腰掛けへつくと、やはり2銭5厘とっていました。
 
 うしろの方はデロレンから見ると前の方は、「たかり」といって見物がたたずんで、幾重にも立ち聞きをしていますから、祭文がこれから面白くなる。立ち聞きの客も聞き惚れているところを見計らい、高座でピタリ錫杖をとめて、二人が話し合いを始め、「ここらでご祝儀を頂いても、悪くはあるまい」「天下の善人たち、聞き逃げという法はなかろう」などと、いうが早いか、一人は高座から飛び降りて、立ち聞きの「たかり」へ、扇子を持って、笊へ貰った文久なり2厘なりを、すくい込み、天保銭でも出ようものなら、特に声張り上げて「天保だよ」といえば、高座の小辰が、「有難うござい。いずれ劣りはなけれども(ト祭文の節を付け)デロレンデロレン」と、今思いますと、お客をなめたお話なんでございますよ、あなた。
 
 逃げ出すお客も、心得ていますから、笊と扇子を掴まないうちに、敦盛(アツモリ)を極めると、「逃げるにゃ及ばねエ。無え物を取ろうとはいわねエ。聞いて行くがいいや」などと、いやみを云いました。「これだけ頂けば、早速に神崎弥五郎東下りにとりかかろう」といった訳で、あんなのは、今時トントなくなってしまいました。
 
興業物 海ちゃんの喜怒  「七味とうがらし」 が、アレで口上つきでした。これは今も浅草公園でやっていますが、「第一に陳皮、陳皮紀州和歌浦……第二に「あさのみ」、あさのみといっても、朝起きて酒を飲むわけじゃアない」なんかんといっていました。
 
 「がまの脂売り」とか「オットセイ」というものが、興業物(ミセモノ)にされていて「海(カイ)ちゃんや、アノ別嬪(ベッピン)をお嫁に貰ってあげようかい」といえば、オットセイがウォーと歓んだような声を出しました。「お前のようなぶきりょうでは、あちらさまでイヤだとおっしゃる」といえば、どう馴らしたものか、グガァー、とオットセイが怒るんですが、どこか痛いとこでもつついたんでしょう。変なものがありましたあなた。
 
 小人島の男といって、1尺5〜6寸の男が、大女の力持ちと一所で、赤い手拭の鉢巻をしてイッチャイッチヤと、5尺女に交って踊っていましたが、後に一座から外(ヨサ)れて、飴なんか売っていましたが、どうなりましたか。
 
 竹沢藤治のコマの曲芸、剣舞が日清戦争頃一番盛んでした。アノ唄が「日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦つづいて金剛浪花艦、西郷死んだもかれがため、大久保殺すもかれがため恨みかさなるちゃんちやん坊主、日本男子の村田銃、筒のきっ先剣つけて、前へ前へと進軍す。1里半行きゃ北京城。撃析(ゲキタク)一声夢さめて、前嶺後陵望見すれば、二階じゃヤツケロの声がする。愉快じゃ愉快じゃ」、誰が作ったものやら、女の私まで覚え込んでしまったんでございます、あなた。
                (篠田鉱造著 幕末明治女百話 四条書房刊から)
 本書は昭和7年(1932年)出版された。著者が大正末から昭和初頭にかけて、記憶のはっきりした女性を捜し出し、(幕末の頃青春期にいた女性も昭和始めには80歳前後だったはず)話を聞き出し記録するという(今と違ってテープレコーダーなどない時代だから)大変な作業の末の出版である。当時の佐竹っ原の有様が江戸弁で生き生きと語られている。

ページトップ