古文書に見る佐竹藩江戸屋敷
                      秋田経済法科大教授 井上隆明氏による
 
〇佐竹の人飾り  佐竹家には松を立てず、門の左右に人を多くならべ置て、これを佐竹の人飾りといふ。鍋島家は松飾りのうへに、藁にて鼓の胴をつくりて飾る。甚見事のものなり。南部家は橙,野老、神馬、藻、昆布に添へて、塩鯛の大きなるをふたつならべて飾る。
                    四壁庵茂鳥「わすれのこり」安政元年 筆
 
 
 東武三味線堀佐竹右京大夫上屋敷は、家例として年々人餝と号する事有て、数多ある諸侯の家々に比類なき事也。是は例年正月七草の日迄、表門の外中を三四間明て、敷石の上左右にわかれて、足軽三人づゝ、行儀よく立ちて居る事なり。諸侯太夫又は一族の入来するといへども、前後を顧ず言(モノイハ)ず、会釈辞儀などする事なく、振向もせで往来を見張立て居る也。是松餝の代にして門外に松餝等なし。是を佐竹の人餝と称す一風なるものなり。但し半刻替りに終日入替て勤仕す。
 
 是はいか成故ぞとにいふに、むかし寛永十四丁の丑年天草一揆の節、大小名の面々肥前の国天草へ渡海し討手を蒙りしが、既に其年の暮より早春の頃は、世上の浮説取沙汰区々にして、一揆が謀略に依て過半戦死し無事帰国する者希なりとの風説のみにて、更に便宜(タヨリ)なければ留守の家々は、正月の規式待もうけ松餝処にあらず、上下主従ともに打湿りて種々に案じ、夫ある者は皆討死と心得、香花手向るものもありけり。
 
 去にても有無の便宜聞たしと門外迄人を出向せ、今や今やと待し処に元日の夕方存寄ず、無事の便有て主従堅固に帰国せし程に、却て松餝をせざるを吉例として、今に至る迄人餝といふ事をなして、門外に松かざりせず、只玄関の左右にのみ、葉竹三株づヽたてたるは此謂なり。
                  十方庵宗知「遊歴雑記」五編上・文政十二年 筆
 
 
 佐竹家には正月門松を樹てず、門の両側に上下着用の侍二人直立して来賀の客を送迎す。世に佐竹の人飾りと称し、鍋島の藁鼓と共に、江戸正月の変奇とせり。
  「川柳江戸紫」
 
 
 一,正月には町家も松を立てざるはなし。武家には副竹五本十本も立、松の下枝は伐り払へり。出入りの障にならん事を慮るにや。飾り藁はいずれも綺麗に而、藁を以て作りしとハ思はれず、外桜田鍋島家には大なる鼓の形を作り、どうがい(灯蓋、行灯)の上に餝りあり。又毛利家のどうがい色々綾どりて、遠目には反故染の様ニ見ゆ。三味線堀佐竹家には門松なく、足軽の如き者、袴をはき役羽織を着、片側に六人ヅヽ 、左右に十弐人薄縁を敷て座し有り。是を佐竹の人松と言ふ。如何なる謂はれの有やらむ。珍しき家例なり。
                       国会図書館蔵「江戸自慢」安政期?
 
 
 天明三年、第八代佐竹義敦は、三味線堀藩邸の三階建て新築記念に当代の狂歌人を招いて宴を張ったことがある。
 
       楼上臨三絃江 秋田太守三階の額           四方赤良
   三階に三味線堀を三下り 二上がり見れどあきたぬ景
                               (巴人集巻之一)
 
       楼臨三絃江といふことを               平秩東作
   玉琴にをさめし国のためしをも ひくさみせんのほりの高殿
                 (始皇帝を援ける華陽夫人の琴の故事。後万載集)
 
       高どの経営し給ひて高楼臨三弦江といふことを
                     人々に詠し給ひければ  節松嫁々
   この殿に千代もすまなん玉だれの 三筋の糸の縁ひかれて
                              (狂言鶯蛙集巻一七)
 
       楼上臨三弦江                    手柄岡持
   水上にちりすてつるか三線の 堀のさらひも見ゆるたかとの
                    (ちりはチリツンの音。 我おもしろ 上)
 
  節松嫁々は著名な朱楽菅江夫人、四方赤良は若き日の蜀山人、手柄岡持は黄表紙作家朋誠堂喜三二の狂名。秋田藩留守居役の喜三二(平沢平格)が取りもって狂歌の宴が開かれたのであろう。赤良の注書きによると、三階に「楼上臨三弦(絃)江」の額が掛かってあり、それを題にして詠んだものらしい。かほど江戸邸は贅をつくしていたのである。
 次は中期から後期にかけて、川柳に詠まれた風景である。右端の漢数字は「柳多留」の句の編数、洋数字は丁数。また1字目の安、天は「川柳評万句合」の安永、天明で、数字は年次、傍は「川傍柳」となる。
 
   三味線が止むと扇を鼻にあて                 七42・安永元
                (扇は佐竹氏の家紋である。)
 
   門松に大勢イ立ちておかしがり                 一〇3・同四
 
   下谷一番伊達者なは扇なり                   安九智・同九    
             (毬歌 おらが姉さん三人ござる……いっちょいいのは下谷にござる、下谷一番伊達者でござる)
 
   下谷では弾く市ヶ谷でかたる也                一六2・天明元    
             (佐竹の三味線堀と浜松水野対馬守の市ヶ谷浄瑠璃坂)
 
   よい蕗の出るは三味線堀の端                  天二信・同2     
            (秋田名物の大蕗)
 
   三味線は扇団扇は木挽町                    傍五6・同3     
            (木挽町は森田座などの芝居町。役者絵の団扇)
  
   日当りのいゝで大きなふきがはえ              二三25・寛政元
 
   蕗よりもぺんぺん草が御意に入り                二三26・同
            (ぺんぺんは三味線の擬音語)
                                
   糸道は御蔵の間を流れ込ミ                  二八5・同11     
            (鳥越川は三味線堀と佐竹の七ツ蔵、美倉橋通りから蔵前へ)
 
   門松に成るのはしごく無病なり                   出典失念
 
   門松の代わりをするも秋田者                 四四2・文化5
 
   鍋島と佐竹は琴の組がしら                  五二29・同8     
            (鍋島の藁鼓と正月の二幅対)
 
   お膝元かなめの場所に扇なり                 五三29・保8     
            (幕府のお膝元は江戸)
 
   三味線の胴に扇の高蒔絵                   五四31・同8
 
   市に世話ないが秋田の人飾り                 七四1・文政4
 
   扇の辻番三味線をしょっている                七九33・同7
 
   かくれもない蕗大名は次郎冠者             一〇四23・同11
             (佐竹次郎 狂言「粟田口」 此当りに隠れもない大名です)
 
   菊岡は三味線堀の説も書き                 一二〇9・天保3     
            (菊岡沾涼の「江戸砂子」に載る)
 
   春の雪橙(ダイダイ)ちゞむ人飾り             一四〇26・同6     
            (春雪沈々。男のチンも縮小か)
 
   三味線と鼓は江戸の飾り物                 一五〇15・同6
 
 邸内に山本北山、大窪詩仏を教授陣にした江戸藩校・日知館があった。国学者伝馬先生こと津村淙庵は佐竹御用達質商、画壇の顔役菅原洞斉(妻は谷文晁の妹の紅藍女史)はお抱え絵師で、近くに住んでいた。門前には東条琴台の住居もあった。
(あきた史記(歴史論考集2)秋田姓氏家系研究会編 秋田文化出版社1989年刊から)

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