本に書かれた佐竹の話 
佐 竹 通 り  西町の更に南隣は竹町である。両町の境いは市電の大通りだ。この市電は大塚本郷方面から厩橋に向う線で、上野広小路で日本橋、上野、浅草間の市電とクロスしてここに来たのである。西町からこの電車通りを越えると竹町で、この町へはいるとまた少しムードが変化する。
 
 西町の立花さんに対抗するように、こちらは「佐竹さん」があった。佐竹侯のお邸である。江戸時代にはもっとたくさんの大名屋敷があったらしいが、、早く取払われて町屋が立ち並んだ。ところが「佐竹邸」だけは取りこわされても 火防せ用地として原のままで永く置かれ、草ぼうぼうの荒れ地でいたので、佐竹っ原と呼ばれ出し、やがてそこに芝居小屋や見世物小屋が建ち、飲食店の屋台などがびっしりと並び、一大盛り場となっていた時代があるらしい。
 
 宮城前の楠木正成像や、上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家高村光雲さんが、ずっと以前に中央公論にこの佐竹っ原のことを書いて居られたが、高村光雲さんのお若い頃、だから明治半ば頃には、この佐竹っ原を流れる川がすごく清らかだったそうだ。その川こそ不忍池からの落ち水の忍ぶ川なのである。三橋の下をくぐり御徒町に出、稲荷町と西町の境となり、佐竹っ原を貫通して、その隣の三味線堀に注ぎこんでいたのだつた。光雲さんの書くところによると水が大変きれいで、光雲さんはその川の前に、張りぼての大仏さまを作ったという。
 
 それも明治時代の夢で、私たちの大正期になると、前章に記した如く「西町の大ドブ」と称せられるように水が汚染し、注ぎこむ三味線堀にしてからが墨汁のような水のたまりで、いつも もやっているのが汚船(オアイブネ・糞尿船)であった。この堀から掘割が隅田川まで続いているので、この辺一帯の糞尿をここで船に積んで隅田川に漕ぎ出し、川を下り、海に出てぶちまけたらしい。
 
 この佐竹っ原にも次第に町屋が建ち出し、僅かな空き地を残すだけになった。僅かな空地とは、堀のまわりだけで、夜は暗く、白粉の濃い女が大正の御代にも男を呼んでいた。
 
 この空地の西側に直線の新道路が作られ、その両側に商店が軒を並べ、佐竹通りという名称で、この界隈一の商店街となった。この直線の新道路は、稲荷町から真っ直ぐなのである。大ドブを渡り、西町を通過し、市電の通りを横断すると、この道路にとっつく。町名は竹町だけれど、通称は「佐竹通り」で、そこへ行くことを私たちは「佐竹へ行く」と云った。
 
 商店街とは云っても、上野広小路の商店街とはいささか趣がちがう。上野は明るいし、商品も若干お上品だが、佐竹商店街は安物が主だった。古着屋の数が多かったので、新品を売る呉服屋も古着屋と間違えられそうだった。
 
 商店街の真ん中辺に「赤のれん おばなや」という屋号の呉服屋があった。この店は間口も広く、堂々たる店構えで、番頭、丁稚も数多くいた。母は佐竹に行くと、この店に寄ることが多かったので、私もよく連れて行かれた。敷居をまたいで横一文字に土間が長くあり、上がりがまちがあり、畳敷きで、客は上がりがまちに腰かけて、番頭がさし出す呉服類を受け取って品えらびをするのであった。奥の正面は棚で、数段の棚に呉服物が山と積まれていた。松竹の映画女優だった朝霧鏡子君、彼女はこの呉服屋さんの娘さんだそうだが、私よりよほど若いようだから、大正時代の店の様子は大正時代の店の様子はほとんどご存じないのではなかろうか。
 
 或る年の暮れに、母に連れられてこの店に春着を買いに行った。上がりがまちに腰掛けて母は品選びをしていたが、私は表通りを眺めていた。暮れだから普段より人通りが多かった。午後の2時か3時頃で、暖かい日だったように覚えている。日本髪に結った女の人がぞろぞろ通った。丸髷に結ったおかみさんも居たし、島田に結ったお姉さんも居た。着物に黒じゅすの襟をかけた女の人が多かった。そういう眺めこそ下町の下町たるところだったろう。襟が髪油で汚れないように、手拭をかけたおかみさんが多いのも、やっぱり下町的だった。(以下略)
      (鹿島孝二著大正の下谷っ子(シリーズ大正)青蛙房 昭和51年刊 から)

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