秋田佐竹藩江戸上屋敷の変遷
佐竹氏は豊臣政権下、五大老の1人として常陸1国54万石を領して水戸に在城したが、関ヶ原の役で徳川方に積極的に味方しなかったということから、天下が徳川のものとなった後慶長7年(1602年)54万5千石から20万5千石に削封され秋田に遷された。
 
 だが、よく領民を守った藩主だったようで、藩境にあった樹齢の古い3本の大松が、一夜のうちに秋田の方向へ枝の向きを変えたとか、水戸藩で採掘されていた鉱石が出なくなり、秋田では大葛金山、院内銀山が盛んになったとか、ハタハタの好漁場が水戸に近い三浜沖から秋田沖に移ったとか、「水戸の不美人・秋田の美人」等々佐竹藩にとって好意的な伝説がもてはやされた。
 
 佐竹藩が秋田に国替えになった後江戸には佐竹氏の藩邸が設営されることになり、慶長15年(1610年)現在の千代田区内神田2〜3丁目の地に完成した。寛永12年(1635年)2代目藩主秋田義隆が上屋敷の鬼門よけに「佐竹稲荷神社」を邸内に勧請した。天和2年(1682年)12月、この藩邸は江戸の大火(駒込大円寺から出火の八百屋お七の振り袖火事)で焼失し翌年台東区台東3〜4丁目に移った。(藤堂邸跡という)
 
               神田駅西口の佐竹稲荷神社

 なお、上記「佐竹稲荷神社」は元の所在地に地元の人々により再建され、以後関東大震災や東京大空襲等たびたびの罹災焼失にも関わらずその都度再建され、神田明神と共に奉祀が続いている。現在のお社は総檜御霊屋造りの本殿で昭和32年落成。佐竹氏の扇紋を社紋としてJR神田駅西口の商店街に鎮座し移りゆく人の世を守護していると。
 
 これとは別に「下谷上屋敷の東北隅に方る所に佐竹藩祖新羅三郎義光公とその御兄八幡太郎義家公を祀った神社があった」と「江戸旧藩邸の思ひ出」(新秋田叢書)に記録がある由。
 
 明治維新、大政奉還の大変革期にいたり、明治2年3月佐竹藩江戸上屋敷は全焼。以後秋田藩の財政は瓦解し明治5年(1872年)上屋敷までも処分され上地するに至り、ここに上屋敷はその使命を終わることになる。以後の変遷については別項に譲る。
 
 なお、医薬品メーカーの「龍角散」のホームページによると、その創始の藤井氏は江戸末期に秋田佐竹藩の典医であり、佐竹藩の家伝薬として伝えられたものを藤井正亭治氏が改良を加え、藩薬として処方・創製し「龍角散」の名がつけられた由である。龍角散本社の所在地が佐竹藩上屋敷跡地から南へ1キロ足らずであることは、上屋敷の瓦解と密接な関係があるのかもしれない。
         (現在地の創業が明治4年(1871年)であるとの記載がある。)

ページトップ