本に書かれた佐竹の話
佐竹の人飾り
 江戸時代は、今の平成小学校や佐竹商店街の続く通り一帯、16,400坪の土地は、出羽(秋田県)の殿さま佐竹右京太夫のお屋敷でした。佐竹さまは、台東区内にあった殿さま屋敷の中では、一番大きな土地を持っていた大名でした。
 お屋敷の周りは、不忍池から流れてくる忍川(しのぶがわ)の水で堀を巡らし、東側表門前には三味線の形をした大きな掘り割り、「三味線堀(しゃみせんぼり)」が豊かに水をたたえて広がり、隅田川からの船が上げ潮に乗ってで入りしていました。
 
お屋敷は四方土塀をめぐらし、表門には、大きな閂門を構え、三味線堀に沿って七つ倉が並び、五本骨扇形月の輪印の家紋入りの甍が長々と波うっていました。
屋敷の角には望楼が建てられ、中は、こんもりとした樹木でおおわれ、門を入ると石畳が奥深く続いていました。
 
 おもしろいことに佐竹さまのお屋敷では、お正月になると、ほかの大名屋敷では、立派な門松やしめ飾りでお祝いをするというのに、人飾りという一風変わったならわしが続いていたのです。
 
 新年の元旦から7日まで、表門の内や外、3・4間(7メートル)おきに足軽侍6人を左右に分け、槍を持って直立不動の姿勢で立たせていました。佐竹の侍を始め、他の藩の殿さまが、年頭の挨拶に訪れても、横や後ろを見ることもなく、お辞儀会釈をするでもなく、ただ黙って人の行き来を見張っているだけでした。そして、この衛兵のような侍は、半刻(約15分)交代で一日中勤めていました。
 
 年の初めのお祝いともなれば、どこの大名も、自分のりっぱさを誇るために、松飾りにも派手さを競うところですが、佐竹さまだけは人飾りだったのです。それには次のようなお話が伝えられています。
 
  今から約360年前の寛永14年(1637年)九州天草に戦いが起き、佐竹さま の家来もたくさん天草に送られました。天草の戦いは以外に長く続き、どこの藩の侍 も帰っては来ませんでした。江戸(東京)では年の暮れで賑わい、お正月の準備に取 りかかろうとしていたところ、「九州に出かけた佐竹さまの侍たちは、わなにかけられ て全員死んでしまった。」と町中に噂が流れたのでした。
 
  留守番をしていた家来や家族の人はびっくりして、正月の準備もほうりなげ、松飾 りどころではなく、たしかな知らせを聞くために、方々へ足を走らせました。しかし、 暗い知らせばかりが入ってきて、位の上の侍の家族も、位の下の侍の家族も、がっく りと肩を落としてしまいました。そのうち、夫のいる者は、死んでしまったと信じて、 仏壇に花を供える者まで出てきてしまいました。
 
  年が明けましたが、佐竹さまのお屋敷では、門松もしめ飾りもありません。門の内 や外は、中屋敷や下屋敷から心配してやって来た家来やその家族、または兄弟藩の侍 や家族でいっぱいになっていました。
 
  他藩の侍たちや御徒衆が初詣で浅草観音や鳥越神社へ行く途中、三味線堀の前を通 ると、佐竹さまのお屋敷では人がいっぱいいることから、
  「佐竹さまは、正月だというのに松飾りもなく、人飾りだよ。」
 といってひやかしながら通って行くのでした。
 
  佐竹の家来たちは、正月も返上して、天草へ出かけた同僚が生きているのか、それ とも死んでしまったのか、たしかな知らせがほしいと必死になって、江戸中に使いを 走らせていました。元旦の夕方近くなって知らせが入り、無事江戸に向かって帰って 来ているとのことです。しばらくすると、家族の騒ぎもよそに殿さまも家来も、天草 へ出かけた侍全員、元気にゆうゆうと並んで屋敷の門をくぐったのでした。
 
  留守番を受け持っていた家来や家族たちは、大喜びで迎えました。この騒ぎがあっ てから、佐竹さまのお屋敷では縁起をかついで、松飾りをしない方が良いことがある と信じ、200年以上明治になるまで、人飾りで正月を送ってきました。
 
  江戸の町民たちは、毎年の佐竹さまの人飾りに慣れてくると、同情する心もなくな り、からかいの仕草をするようになりました。そばに寄って百面相のにらめっこをし たり、鼻の穴を覗いたりしましたが、人飾りの侍は直立不動の姿で無言でいました。
 
  江戸の終わり頃になると、町人の間では、佐竹の殿さまのことを、松飾りも買わな いケチな殿さまと、陰で悪口を云い立てるようになりました。
 
 現代で云う人間マネキンが、江戸の昔から佐竹さまのお屋敷で行われていた事は、ギネスブックも知らなかったでしょう。
         (末武芳一著 「上野浅草むかし話」昭和60年三誠社刊から転載)
 
☆ 門松の代わりをするも秋田者
☆ 市に世話ないが秋田の人飾り           いずれも「川柳江戸紫」に掲載

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